黒潮の道

黒潮の道

杉の子味ごよみ「黒潮の恵み」より抜粋

杉の子味ごよみ「黒潮の恵み」

著/森 松平 出版/鉱脈社
(1995年)25周年記念出版

〈第6回宮日出版文化賞受賞〉

照葉樹林と黒潮の道

宮崎は南北に165km、海岸線391kmで、豊後水道から南下する沿岸水と、沖合を北上する黒潮本流との間に複雑な潮境をつくって、カツオ、マグロ、ブリ、サワラ、アジ、サバ、イワシ、トビウオなど回遊魚の好漁場となっている。宮崎はひむかの国である。日向のその名の通り黒潮の流れを受けて暖かく、農作物ば豊かに実り、魚貝類にも恵まれている。
太平洋、日向灘、大淀川、山懐深き日向の山々ば春秋夏冬ごとに季節の味を約束してくれる。私ば宮崎の味のキーワードは「照葉樹林食文化」「黒潮の道食文化」と考える。
黒潮の道がテーマだが、その前に照葉樹林食文化についてのべてみたい。
照葉樹林とはテカテカ光る葉を持った常緑樹で、クスノキ、カシ、シイ、モチノキ、ツバキ、サザンカなどである。
照葉樹林文化について広辞苑は「コヒマラヤ中腹から東南アジア北部、南苗中国、江南の地を経て西日本に至る、照葉樹林地帯に共通する焼畑などの文化要索を特色づける文化」と記してある。
宮崎県椎葉村向山日添で民宿“焼畑”を営む椎葉秀行、ク二子夫妻は、今なお焼畑農法を継承し、アワ、ヒエ、モチキビ、ソバといった地どれの雑穀で「ヒエガユ」「わくど汁」「そまげ」等のふるさとの味を伝えている。
照葉樹林食文化に共通する稲作、お茶、柑橘類、紫蘇、里芋、葛、自然薯、大豆、うるし塗り、蚕からつくる絹織物、麹から作る味噌、醤油そして酒。宮崎にはこのほか際立った特異性として、乾燥野菜(干し竹の子、干し椎茸、干しぜんまい、干しわらぴ、干しいもがら、千切り大根、寒干し、いかんて)の豊富さと、木炭の灰あく汁を利用して作るあく巻があげられる。宮崎冬一番の味覚、天然猪の年間捕獲量は七千頭余もあり、山女魚、鮎、鯉、うなぎ、すっぽん、山太郎がになどの川の幸も照葉樹林に育まれた賜物である。
照葉樹林の恵みは山野のみでなく、沿岸漁業にも波及効果をもたらしている。伊勢海老、車海老、旭カニ、真鯛、鮮、甘鯛、鯉、チリメンジャコ、フグ、カキ、ウニ等も宮崎どれ自慢の海産物である。海と山は有縁のものであり、有機的につながっている。最近になって山が守られ、川が守られてこそ海の資源も守られる事に気付き、各地で「森は海の資源の防波堤」運動が進められている。
ところで、宮崎農産物の中でピーマン、トマト、日向南瓜、胡瓜は全国プランドとして名高い。中でも胡瓜ば全国各地に周年出荷され、咋年から「ひむかグリーン350」も売出された。中国雲南省昆明の市場にならぶ「山黄瓜」に似て、太くて長い、昔なつかしい胡瓜の再登場である。照葉樹林文化の中から生れた歌垣、十五夜のお月見、大綱引きに思いを馳せて学び、創れる宮崎の大地はありがたい。
今年の歌会始人選者10人の中に建網漁の経験を詠った北浦町市振、漁業、森治平さん(82)が入った。森さんは13歳で漁師の道に人り、16歳の時、万葉の歌に感動を覚え、63歳でアララギ会員となり、本格的に歌を始めたと言う。このニュースに接し、わが身に起った事のように嬉しかった。
森姓は太平洋沿岸部に散在し、全国の漁師村にいると間く。松浦、村上、九鬼、河野水軍とならんで森水軍もあり、紀州古座川がルーツのようだ。
私の祖先違は江戸時代、紀州古座川から薩摩坊之津にかつお漁を伝え、明治初期に坊之津から分家して枕崎(当時は東南方村)に移り住んだ。
私の祖父(森友吉)は大正5年に建造した108トンの鰹船、第五蛭丸の船頭であった。この船は洋型船第1号で終戦前まで活躍した。
終戦後、現役をしりぞき、半農半漁の中で小型の和船を持ち、悠々自適の生活であった。小学生の折、花渡川から枕崎港まで一緒に乗船し、その折の潮の流れ、立神岩の眺めが今でも鮮明に思い出される。
祖父の家によく寝泊りした。祖母が伊勢海老の殻でつくる家伝の打身薬、沖縄漆器の椀や提げ重箱、苦瓜や南瓜の日除け棚、里芋を洗う三つ股のすりこぎ棒、青野莱、らつきょうの塩漬作業、蓬の若葉を摘み茹いて日干しする作業、干し魚づくり、軒先につるしたトウモロコシの束、屋根上に無造作に千された輪切りサッマイモ、篭一杯のカンコロダゴ、黒豚の豚舎等々、私の食の原風景の数々は祖父の家と庭先にあった。
私は縁あって、宮崎県佐土原町出身の妻と出会い、今年で32年の歳月が流れた。佐土原町は島津三万石の城下町で旧薩摩藩の流れをくんで、薩摩半島の食文化と共通点が多い。豆腐をオカベと言ったり、湯なます、冷や汁、かいのこ汁の家庭料理もある。
9年の修業期間の後、昭和45年10月、宮崎市西橘通に「ふるさと料理・杉の子」は開店創業した。一本釣りの真鯵、ウルメイワシ料理を柱に徐々にお客様に愛される店づくりを目指した。宮崎人は小魚の刺身が大好物である。シロウオ、キビナゴ、イワシ、アジ、サバ、トビウオ、そしてカッオ、マグロとつづく。
昭和50年1月10日、南日本新聞の特集記事「伝統を継ぐ」で杉の子は紹介された。
当時の宮崎支社長大沢さんの筆によるもので「カッオと黒豚の町の枕崎に生まれ、父の浅盛さん経営の料亭育ち、少年時代から本場のカツオのタタキ、とんこつ料理など食い放題の“地の利”に恵まれていた。伝統の郷土料理で身を立てる星の下に生まれ合わせたようなものだった。宮崎市にやってきたのは指宿野崎別荘で結ばれた妻の玲子さんの縁。大きくなったら森になるぞと、店名は併杉の子、本人日く(できれば店を一年ぽど休み、日本の味を訪ねる旅にプラリと出かけたい。土佐から紀州へ黒潮の流れている沿岸を回る。そこに昔から伝わる黒潮の味といったもの、それをさぐり当ててサラに盛りつけたい)とミナト枕崎の黒潮育ちらしく、伝統の味の発掘にかける夢もスケールが大きい」とある。こうした好意ある引き立てを頂き、私の黒潮の道への旅は始まった。

鰹 カツオ節

「坊の岬に桃花咲くころ 今年もカツオがカツオがくるぞ はまらんかい きばらんかい」北島三郎の「漁歌」は働きものの港町枕崎の人々をうたった歌である。私は18までここカツオの町まくらざきで生まれ育った。
 私は日本地図を海よりの視点で見る。陸路より海路で見る癖といってもよい。
 それは多分に、自分の生まれ故郷と関係があると思う。漁を終えて、帰港する鰹船にとって、枕崎、宮崎、高知どちらの港を目指すかは浜値の相場次第で、距離、時間は大差ないと教えられてきた。カツオ街道ともいわれる黒潮の大海原で結ばれた海路は一衣帯水の地域と映る。
 もう一つの理由は辺境意識であろうか。九州最南西に位置する枕崎市には、難解な薩摩弁の中でも、その上をゆく「まくらざき弁」なるものがあり、江戸時代幕府役人のために鹿児島弁、枕崎弁2人の通訳を要したというエピソードもある位なのである。
 辺境にもかかわらず、鰹節という一つの商品力で日本全国に流通チャンネルを持ち、住民の眼はいつも海の彼方を向いている。そして枕崎台風(昭和20 年)、ルース台風(昭和26年)といった台風常襲地帯ゆえのたたかれ強さの特性もある。「はまれ」「きばれ」は士気を鼓舞する方言で、「行かんときゃ、押っしゃれ」「乗いくんだ舟ぢゃ」とばかりに「枕崎の男は夢を追いかけ、女はそれを支える」という俚諺は何とも心強い味方であろうか。
 鰹は「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」の句の通り、日本人好みの魚であり、江戸の昔から狂歌に「米、刀、女の才智、富士の山、畳、美濃紙、味噌、鰹節」とうたわれている。
日本全国で約40万トンの鰹が消費されその内の約四万トンは、国際化の中、モルディブ、インドネシア、フィリピンからの輸入のもので、そのほとんどが鰹節の原料となる。40万トン中20万トンが鰹節用。
 宮崎県の水揚高は21,500トン(平成三年度)、その内日向灘沿岸の近海もの3,200トン。県内消費は3,500トン。八割以上は高知県をトップに、大阪、京都、東京、福岡、金沢の鰹大好き人間の集まる都市に移出して喜ばれている。
 宮崎県の鰹船は鹿児島、三重、静岡の大型冷凍船(300〜500トン)と違い、50から99トン型冷蔵船で刺身用の鮮魚としての鰹漁を行う。
 宮崎県水産試験場所属の「みやざき丸」(169トン)は他県がうらやむカツオ調査船であり、試験操業しながら、自県の船団に伝えて漁場に誘導する役目を持つ。
 カツオ漁の歴史は、黒潮の源流に向かって、沿岸から沖合へ、そして台湾、ブィリピン、インドネシアと外国にまで基地を作っていった訳だが、200カイリ間題、人件費、燃料費、後継者問題と障害が山積している。宮崎には五トン前後の小型船もあり、日向灘沿岸、種子島近海で操業したものは近海ものとして特に重宝されている。(小さなことはいいことだ)
 黒潮洋上における宮崎船の活罐ぶりは他県船の合言葉「宮崎に負けるな」を生んだとは痛快なり。
ところで鰹節は日本固有の食文化と思っていたところ、インド洋上に浮かぶ、人ロ21万の島国、モルディブ共和国にもあるという。
 枕崎に小といえども日本最初のコミューター専用空港を造った、前枕崎市長、今はなき田代清英さんとの対話の中で初めて知った。
 「将来、鰹節の生産は、モルディプをはじめとして、黒潮源流の地で一次加工をすませ、削り整形、カビ付け等の高度加工主体となろう」。
 現実に静岡県の業者が現地生産しているニュースに接し驚くばかりである。
 日本で生節にあたるのがワローマス、いぶした荒節がヒキマス、色も香りも同じとは当然のことだが、日本との関係が気にかかる。広辞苑に「鰹は熱帯、温帯の海に広く分布し、日本へは春来遊する」とあって世界中の暖流、暖海に分布することを教えてくれる。
 「モルディブのヒキマスはずっと大昔からあり、アラブ人がヨーロッパの肉のくんせい法を伝え、カツオの保存法として生かされた」との記事(われ等黒漸民族、琉球新報社刊)を読み、ようやく納得したことであった。
 大航海時代の琉球の人々が橋渡しの役目をし、南の島づたいに伝えたとすれば、黒潮の流れにのってやってきた食文化交流の大ロマンといえよう。モルディブでは生食はなく、主としてカレーにして食べる。この料理法にヒントを得てカツオのほか、シイラ、トビウオの切身を小麦粉をつけて空揚し、カレー煮込みすれば、様々な「黒潮名物料理」誕生になるのではと考えることであった。
 ヒキマスを小さく砕いて、米と炊く「パイペン」という料理も興味深い。
 黒潮が取り持つ合縁奇縁で、これまで数多くの人々に巡り合えた。料理屋冥利に尽きる思いだ。
 若い頃、人丈島で暮らしたムツゴロウ先生こと畑正憲さんには旭かにの産卵生態の話を聞き、国営沖縄記念公園水族館長内田詮三さんには貫重な自著、資料も頂くことであった。
 ヨットウーマン今給黎教子さんとは、平成3年秋、大分県日田市で行われた九州連合議会が初対面。鹿児島代表として今給黎久枕崎市長も同席して縁を感じた。この縁で杉の子名物栗の渋皮煮と宮崎名物とり笹身くんせいは太平洋往復横断に成功したヨット「海連」に積みこまれていたのだ。私の心ひそかな喜びの一つとなった。
 今給黎さんの父母は共に枕崎出身。父の「連」母の「海子」から「海連号」は生まれた。
 黒潮の流れ、黒潮の恵みを訪ねて、各地を訪ね、産物、料理法にふれ、沢山の人々の群れに身をゆだねよう。黒潮は有り難い。

飛び魚 月桃

飛魚は黒潮海道の魚である。全国の漁獲量は年間一万トン、宮崎は300トン前後、第一位は長崎で、鹿児島、島根とつづく。
 河谷日出男著『私の博物誌』に「沖縄の南端江頭嶼の沖合にトビウオが姿を現わすと、日本列島の春がばじまる。南の春告げ魚だ。そして八十八夜、屋久島、種子島、五島、山口県北浦沖と黒潮に乗って北上し、秋口にまた南にもどる。人吉地方でば田植えの加勢人に出す食事ばオコワにアゴ、生大豆をすったゴジルに、キュウリやキャベツの酢あえと昔は相場が決っていた」との記述がある。
 黒潮本流の流れる太乎洋側にはアゴの呼び方はなく、薩南海域で対島暖流となって九州の西側を通り、日本海を北上すると、トビウオではなく、なぜか「アゴ」と改名する。
 日本近海のトビウオは24種もあり代表格のホントビ(トビウオ)、一番大型のカクトビ、胸ビレに斑点のある美しい小さなアヤトビ、赤みがかった赤トビ、そして産卵のため八十八夜前後に都井岬沿岸に来遊するツクシトビウオ(オオトビ)等がある。
 トビウオには未解明な事柄が多く、これからも話題つきない注目銘柄といってよい。
 日本人はことのほか魚卵好きで、ボラのカラスミ、ニシンの数の子、スケソウダラの明太子、チョウザメのキャビア、鮭のイクラ、ブリの真子、そしてトビウオの飛子。そのトビッ子だが、主産地は日本から遠く離れたインドネシアのスラウェシ島で、香港、シンガボール、日本がその輸出先である。
 週刊朝日の特集記事「飛魚海道」に「走る船上でトビッ子採りの仕掛け作りが始まった。ヤシの葉を細く割く。それを竹の枠に縛りつける。竹篭を船底から出してきて、口に海草を結ぶ。竹篭は魚が入ったら出られない筌だ。筌も竹枠に縛ってこれで準備完了。トビウオは夜、産卵にやってくるそうだ。海草にさそわれて仕掛けに近づき、ヤシの葉に卵を産む。そこにやってきた雄が大騒ぎして、筌に入る」と。
 最後のところ、雄が大騒ぎする状況を種子島の「追い込み網漁」では「アゴじやから網をあぐるな!じっとしておれ」と迫い込み役のスミ手に注意し、オスが海を真白に濁らす様をコアゴを立てる」という。オスもメスも馬鹿になって、ドンドン網の中にばいるものらしい。「アゴをなでる」「アゴを外す」「アゴが落ちる」と「アゴ」に関する面白い表現が多い。案外こうしたところに語源があるのかも知れない。
 ところで種子島の人々は鹿児島の放送番組より宮崎の方により親しみを持つと聞く。その理由は、気候型が両一で、宮崎県の天気予報がよく当るといった所らしい。「黒潮の道」キーワードで納得する。それもあってか、格別交道体系は直接結ばれていないのに、宮崎には意外と種子島出身の居住者が多い。杉の子と縁の深い酒井卯一郎先生は大宮高、妻高に勤務し、長く宮崎県水泳連盟理事長を務められた生粋の種子島人だ。そのほか、私は善良で働き者の種子島出身の知人を数多く持ち、種子島には深い縁を感じてならない。
 鹿児島と種子島を結ぶ高速水中翼船は「トッピー号」という。「トッピー」とは種子島方言でトビウオのことだ。
 種子島といえば「月桃」のことシャニンの話がある。シャニンとは社人、神役のことで、祭礼の時、社人がこの葉に飯を盛って供えたところからその呼び名となった。
 月桃は生姜科に属し、六月になると白い花がいっぱい咲き、すがすがしい香りをただよわせる。沖縄では「サンニン」、奄美大島では「サネン」といい、共通して、握り飯のいれもの、蓬団子の包み葉、そして魚貝類運搬のさい防腐剤の役割もあって重宝されてきた。
 宮崎県南郷町にトロピカルアイランドという名で売出し中の大島にも月桃は自生している。私が見た月桃の北限は伊勢志摩にある志摩観光ホテルの海向いの園内である。
 月桃もコ黒潮の道」キーワードの一つと思い、この活用に取組み中だが、今は宮崎産コシヒカリのおにぎりの包み葉、海の幸月桃包み焼として献立を賑わせてくれている。
 束京渋谷に八丈島酒房「ゆうき丸」という料理店がある。八丈島洞輪沢港を母港とする「友喜丸」が水揚げした黒潮の幸が売り物で連日満員の盛業中だ。
 ある日、何の予備知識もなく「ここには何かありそうだ」のケモノ的勘で、在京の友人とつれだってはいってみた。もうびっくりである。献立表、ネタケース、そして「七島もの」なるパネルを見ると、春飛、夏飛、セミトビ、キハダマグロ、クロマグロ、ウメイロ、尾長鯛、カンパチ、ヒラマサ、シマアジ、イセエビ、旭かに、シタダナ(ミナ)、モロコ(クエ、アラ)、あぶき(とこぶし)。なんとなんと宮崎地どれとまったく同じではないか。献立帖に「当店で刺身を召し上がらない方は他の店に移られた方がよろしい様で!」とある。明日葉、島芋、島生姜、島唐辛子、くさや、ふじつぼ、島すし、島のり、うつぼと価性派もずらり。くさやはムロアジ1,500円、トビウオ2,500円とあってどうやらトビウオ製が上等らしい。トビウオ料理はこのほか、刺身の姿造り、唐揚げ、塩焼、スープ、丸煮とあり、圧巻は羽根をひろげたまま丸揚げしたものを大鉢の温麺の上にドンと盛られた「トビウオソーメン」だ。
 秘かに宮崎名物とすべく作戦中なり。
 ここはとてもお客様を大切にすると見えて、ひんぱんに友喜丸漁業情報など、様々な便りを届けてくれる。ここの主たる飲みものは芋焼酎で、鬼ごろし、情け島、島流し、島の華等。この島に焼酎作りを伝えたのは薩摩藩の流人「丹宗庄右衛」で、後年その子孫の丹宗阿久根市長が人丈島を訪ね、島酒の碑が建てられた。南の肴はやはり焼酎が合い口であろうか。
 今、私のささやかな夢は「七島もの」パネルに発奮して、「宮崎もの」「南九州もの」の魚貝類パネルを作成することだ。
 そして、野菜、果物のパネルと進み、旬の歳時記に正しい食生活の羅針盤を盛りこむことであろうか。「食は宮崎にあり」とみやざきの味早わかり地図を有志の知人と知恵をよせあって作り上げたい。黒潮の道に位置するみやざきにはどんな炎天、酷暑といえども水不足の心配は一切ない。前は太平洋、後ろは九州脊梁山脈、みやざきの誇りは食を通して語るのが一番の早道と考える。

頭(かしら)を食べる会

頭を食べる会は昭和58年に発足した。まもなく12年余が経過し、中年から老年へと移行しつつも全員健在にして意気軒高なり。
 「食べものの味のわからん奴には人生の味もわからない」という名言?が世にあると聞く。ところがだ、今呼びかけようとしている昭和10年から15年生まれの我々世代ば、いわゆる「味」どころか、生まれた時から、そもそも「食」にありつけるかどうかが重大間題なのでありました。
 やっとくぐり抜けてきた我々世代も40才半ば、さあ、これからというとき、咋今の世相を見渡せば、なにやら貧乏くさい話ばかりで意気上がらぬことはなはだしいものがあります。今吏、又又辛気臭い話はもう沢山です。せめて我々のまわりなりとも、景気のいい話で意気上げようではありませんか。
 ここらで、食べ物の味も、人生の味も、積極的に味わって見ようではありませんか。
 それをきっかけに集い、名付けて「頭(カシラ)を食べる会」。
 味もまず頭からゆこうというわけで、鯛の頭、アジ、イワシ、カツオ、サバ、タコ、ブリ、アラ、マグロと魚の頭をかぶりつき、牛頭はおろか、鶏頭、羊頭、豚頭、猪頭ばてはまむしの頭まで食べつくし、食い尽して見ようではありませんか。
 時代の歴史を共有する我々仲間が寄り集って、同じ時代を語り合いたい。未来を、世界と、女と、ロボット時代を、パソコンを、ゴルフを語り合いたい。すべて本音で語り合いたい。集れ、我ら中年時代!!」。
 この会の成果は、各々の受取り方次第、勝手で気ままである と。
 この会を通じて、私は貴重な勉強をさせてもらった。この会の中から杉の子の社外重役も誕生し、その辛口のアドバイスは本物のわさびに勝るとも劣らぬ効果である。杉の子が二十五年間すくすく育ってきた土壌は、宮崎の大地であり、おらかな宮崎人の心情と思う。